(畜生…あの野郎……!)
強引に事を決めてしまった大沢が、生徒指導室から出て行って数十分が経過していた。
日高はというと生徒指導室から一歩も動かず、苛々とした思いで過ごしていた。
心境的には、動けずといった方が近いかもしれない。大沢に指示された走り込みにも行けず、逃げ帰ってしまう事もできない。
経過した数十分は、焦燥する本人にとって倍近く長い時間に感じられていた。
普段の日高であれば、馬鹿馬鹿しい事に付き合っていられないと、さっさと帰ってしまうような状況であったが――
しかし、それは何度も日高を呼び出しては逃げられていた大沢に見越されていた事だった。
洗濯の為と逃げてしまわない為にという理由で、日高の全ての衣類は大沢に持って行かれてしまっていたのだから。
日高に残されているものといえば、足元のスニーカーに靴下。身体を小さくして、身を隠すように抱えている椅子の背もたれ位だった。
その状態で人に走って来いというのだからあんまりな命令だったが、大沢自身は苛めや罰則でやっているつもりは毛頭も無かった。
元より体育会系の人間なので、学生時代の部活動では先輩命令で無理難題を言われ、酒の席での下ネタやら馬鹿な宴会芸をやったりで、裸で走るくらい恥ずかしいとも屁とも思っていないのである。
いくら自分に恥じらいが無いからといって他人の心情も一緒くたに考えるのが、大沢の無神経な所以であったが…
窓から見える外の景色はそろそろ薄暗くなってきており、校内の教員や生徒達もほとんど帰っているかもしれなかった。
それでも運悪く誰かに見つかったらと思うと、日高は気が気ではない。
(……洗濯ってどんだけ掛かるもんなんだよ!俺がグラウンド走るまで、戻って来ないつもりか…!?)
大沢がどこかに隠れて走っているかチェックしているかもしれないと、日高の頭に疑念が擡げる。
もしくは、戻って来た時に走っていない事が知れたら、大沢が見ている前で強制的に走らされるかもしれない――
日高の心臓がドクドクと嫌な鼓動の立て方をして、椅子の背を握る手先は震えて額に脂汗が流れていた。
いつもの日高の気丈さは大沢との力の差を見せられ、更には心許無い姿にさせられた事もあって、すっかり失せてしまっていた。
大沢が出て行ってから数十分の間、悩んだ末に日高はガタリと椅子を引いて立ち上がる。
暗くなっている今のうちに少しだけ走っておこうと決めた。
適当に何周かしておけば、大沢が戻って来た時にもう走っておいたのだと言い訳もできる。
恥ずかしさより何より、あの男の機嫌を損ねてこれ以上無茶な提案をされる事の方が今の日高には恐ろしかったのであった。
そっと戸を開けると、春先の冷えた外の空気が生徒指導室に入り込んだ。
日高は扉から首だけを出して、用心深く周囲を伺ってみた。
校舎の明かりは消えて辺りは暗く、周囲に人気は感じられない。
進学校である事もあって遅くまで残って部活動に励むという者もおらず、生徒達は午後の予定としては塾や習い事に行くというのが学園では普通である。
しかし、今日に限って誰かが残っているという可能性もあり、日高は何度も周辺を見渡し、その後にやっと恐る恐るといった様子で外への一歩を踏み出した。
いつもはふてぶてしく周囲を威圧するような態度で校内を歩く日高だったが、この時ばかりは身体を屈ませて、びくびくと怯える歩き方しかできなかった。
自分のおかれた今の状況に冷や汗をかきながらも、暗い通路を選んで密やかにグラウンドまでの道程を歩んで行く。
やっとの思いで辿り着いた目的の場所だったが、校庭横にライトが点いている事に気付いて、ギクリと日高の身体は震えた。
暗いとばかり思っていたグラウンドは、防犯対策のために一つの照明が点けっ放しにされていた。
そこが光に照らされた場所である事を知ると、日高の喉からヒュッと引きつるような呼吸音が鳴り、その身は硬く硬直してしまう。
(……とにかく、誰か来る前に…大沢が戻ってくる前に、1~2周さっさと走ってしまえばいいんだ…!)
最早、やけくその心境で日高はグラウンドの青白い光の中に入り込んだ。
気持ちは焦っていたが、靴が土を蹴るザッザッという僅かな音でも気になってしまい、全速力で走る訳には行かなかった。
日高は運動神経は良い方だったが、恥ずかしさと不安で俯いて背が丸まった姿勢になり、この状況下ではどうしても不恰好なフォームになってしまっていた。
学校内はしんと静まり返っていたが、時折、近所の通りから車が通る音や人の話し声が聞こえてきて、その度に日高は血相を変えて身を屈ませる事になった。
校舎と塀に周囲を囲まれているグラウンドなので外からはまず見える事は無いだろうが、遠くから笑い合う声が聞こえてくると、まさか自分の事ではないかと被害妄想のように日高を怯えさせた。
その怯え戸惑う姿を面識のある誰かが見つけたとしても、校内や周辺の学校で忌まわれる不良少年と同一人物とは分かりそうもない様子だった。
そんなもたつく動作を繰り返して、萎縮して思うように走れないながらも、日高が走った距離はようやく一周に到達しそうだった。
日焼けした日高の身体は、その運動と羞恥に褐色の肌を赤っぽく火照らせていた。
プロローグ P1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11