ジルが与えられている部屋は、お屋敷の上階の石造りの部屋でした。
そこは窓が一つと粗末な寝台があるだけの暗く殺風景な小部屋で、ジルのために公爵様がこしらえた素晴らしい部屋は、今は長男のライナスのものとなっているのでした。
自分の部屋に戻って、濡らした布で汗や体液の滑りを拭きとると、ジルはやっと一心地つくことができました。
日が落ちた暗い部屋の照明は、古ぼけたランプが一つあるだけです。
ランプに点った小さな火が揺れて、薄ぼんやりとジルの裸体を照らします。
清潔な状態になったものの、肌につけられた歯形や鬱血した痕は消えず、それは身体中に浮かんでいました。
身体を拭いたことで剥き出しの肌が冷えてしまったので、身震いしながらジルはシーツの中に丸まりました。
そこは隙間風の入る肌寒い粗末な部屋でしたが、今のジルにとっては屋敷の中で唯一息が吐ける場所となっていました。
あまり食欲がわかないため、施しの包みの中から少しのパンと果物だけを選んでジルは口に運びます。
ボソボソとそれらを咀嚼をしながら、意識はぼんやりと過去の記憶を追っていました。
寂しさがそうさせるのか、ジルはこうして一人で食事をする時間、まだ公爵様と奥方様がそばにいた頃の家族の食卓が思い出されてならないのでした。
美味しいご馳走より何より、大切な人たちの笑顔や優しい会話に溢れた風景が、遠く懐かしくジルの脳裏を過ぎていくのです。
ランプの油が減ってしまうので、早々に火を消してしまうとジルは寝台に横たわりました。
部屋の明りは窓から入る月明かりだけになってしまいます。
そうなると他にできることもないので、ジルは窓から暗い星空を眺めながら夢想の世界に耽るのでした。
もう続けることはできなくなってしまいましたが、学びたかった学問のこと、好きな詩のこと、
ずっと小さな頃に公爵様に連れて行ってもらったお芝居の、その場面だけを覚えている幻想的な一幕、
そして、どうか両親が天国で幸せに仲良く過ごしていますようにと祈り――
すぐに疲労がジルの意識を連れて行ってしまうので、いつもそれはほんの短い時間のことになるのでした。
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