鰐さんの増大する怒りにも気付かず、白兎は必死で自分の保身のための言い訳を繰り返していました。
森の住民たちはすっかり呆れ果ててしまい、この騒動に飽きてぽつぽつと自分の住み処に帰り始める者も出てきた頃のこと――
騒々しく響いていた白兎の声が、ぷつりと途切れたのでした。
それは周囲の者や兎自身も、あっと息つく暇もない瞬間の出来事でした。
瞬時に鰐の強い腕が振るわれたかと思うと、軽々と白兎の首は捕らえていました。
巨体の鰐と小柄な兎では頭二つほども身長差があるため、首を吊り上げられた白兎の両足はぶらりと宙に浮いています。
巨体のために鈍重に思われる鰐さんでしたが、獲物を捕らえる時の瞬発力などは目を見張るものがあり、すっかり油断している白兎を易々と捕まえてしまったのでした。
鰐の右の片手にぶら下げられて首が締まった状態の兎は悲鳴も出せず、喉からはぐぅっと空気のような音を漏れ出るばかりです。
青い顔になった兎からは先程までの強気な勢いは失せ、騒がしい声が塞がれたために、また森にはシンとした静寂が戻っていました。
ただその静寂の質は、今までの長閑な静けさではなく、周辺を緊張させる凍ったような沈黙でした。
白兎だけでなく周囲の者たちも黙り込んでしまい、怯えたように鰐さんの動向を窺っています。
やがてその緊迫した沈黙から、鰐さんの小さな呻きがぼそりと聞こえました。
足をばたつかせて酸欠にもがく白兎には聞こえていませんでしたが、周囲の住民には不明瞭ながら「…これだから餓鬼は嫌いだ」と低い呟きが聞きとれました。
「…人がおとなしくしてれば、すぐつけ上がりやがる」
思うように息ができない苦しさの中、兎は必死に爪を立てて抗うものの、首を締め上げる鰐の力は僅かにも緩まってくれません。
鰐の強靭な片腕が、兎の首を掴み上げたまま軽々と左右に振られました。
鰐さんにとっては軽い荷物を振り回す程度の動作でしたが、首が締まった白兎には、それはひどく苦悶を強いられる動きでした。
喉を押しつぶされた兎の苦しそうな哀れな声が周囲に響きます。
しかし、それを見ている者たちは怯えきっていて、誰も鰐さんを止める事ができずに立ち竦んでおりました。
流石にこのままでは兎が窒息してしまいそうだったので、鰐は一旦、締め上げていた首を開放してやりました。
そのおかげで白兎は地に足を着くことができたのですが、自分を捕らえていた腕の拘束が無くなった途端、素早く背を向けて逃げ出す体勢に入りました。
通常の白兎の脚の速さをもってすれば、さっさと逃走できていたのでしょう。
しかし、襟首を締め上げられたことによる酸欠と恐怖心が、兎の身体から持ち前の瞬発力を失わせていました。
まだそんな元気があったのかと、鰐さんの表情が忌々しく歪められました。
白兎の脚は僅かな時間ながら動きをもたつかせて、逃走の時間を遅らせてしまいます。
そして、その一瞬の時間のために、白兎が逃げ出せる最後の機会は損なわれてしまったのでした。
「ぎゃあぁっ!」
ビーッという鋭い音と共に白兎が大仰に叫んだので、住民たちはぎくりと身を竦ませました。
白兎の衣服も肌も似たような淡い白色とあって、まるで皮膚が引き千切られたかのような錯覚が一瞬起きたのでした。
しかし、落ち着いてよく見てみると、鰐の手に掴まれているのは白い衣の切れ端です。
逃げる背中を鰐の腕が力一杯捕らえたために、兎の纏っていた衣の背中の布地が破れてしまったのでした。
必死の形相で尚も逃げようとする白兎でしたが、鰐のほうはそんな獲物を逃がしてやる気も許してやる気もありません。
素早く脚を蹴り出すと、兎の足を払って転倒させてしまいました。
「ぐあ…っ!」
両者の体格と力にあまりに差があるため、鰐が力を加減してやった足払いでも、白兎の足には丸太でもぶつかったような衝撃に感じられました。
蹴られた足は痺れたように感覚がなくなり、これでは素早い逃走どころか満足な歩行すら適いません。
白兎は痛みと恐れに顔を歪めながら、縺れる手足で地面を這いずることしかできなくなってしまいました。
二十数名の住民たちが集まる泉の前――
住民たちは雲行きの悪くなるばかりの事態を前にして、おろおろとしながら事の成り行きを見守っていました。
中には仲介を試みようとした者もいましたが、自制心を失った鰐さんに怒りの形相で睨まれてしまうと、止めようと差し出した手は震えて引っ込められてしまいました。
いくら虫の好かない白兎でも見捨てていく訳にもいかず、しかし、助けてやるためのうまい方法も思い浮かばずで、観衆は途方に暮れてしまって立ち竦むばかりです。
そもそもの事の起こりの原因である白兎は、哀れな惨状で地べたに蹲っておりました。
衣を引き千切られて、外気に晒された無防備な背や手足は小さな擦り傷ができて泥に塗れています。
いつもは勝気で悪戯な笑みを浮かべている白兎でしたが、この時ばかりは相貌を恐怖に歪ませて、滑らかな頬は涙と土に汚れていました。